新型コロナウイルス感染症を含め、感染症では1人の感染者が多くの人に感染させることがある。いわゆる「スーパースプレッダー」だ。ここでは、元祖スーパースプレッダーである「腸チフスのメアリー」の物語に加えて、新型コロナで注目される飛沫の「スーパーエミッター(排出者)」について紹介しよう。
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1906年の夏、米国ニューヨーク州ロングアイランドの別荘に暮らす銀行家の家族と使用人計11人のうち、6人が腸チフスに感染した。発生源の追跡に苦労する家主は、「エピデミック・ファイター」と呼ばれ、公衆衛生の専門家のようになっていたジョージ―・ソーパーに声をかけた。
当時は公衆衛生の慣行を定めた法律が存在しなかったため、腸チフスはありふれた病気で、ニューヨークは何度も集団発生を経験していた。ソーパーが調査を開始した1906年、ニューヨークでは腸チフスの死者が639人報告されている。しかし、集団発生の感染源を追跡し、1人の保菌者に行き着いた前例はなかった。もちろん、無症状の保菌者を突き止めた前例もない。
ソーパーは、腸チフスなら1人の保菌者から感染が広がることもあると考えていた。そこで、感染者が出る3週間前にこの家にやって来たメアリー・マローンという料理人に目を付ける。
ソーパーのこの見立ては正しかった。結果、無自覚な保菌者がいかにして感染症の発生源になるかを実証し、後に公衆衛生と個人の権利を巡る論争を引き起こすことにもなってゆく。
入院、裁判、釈放、そして再び感染者が
ソーパーは1900〜1907年に夏の別荘でマローンを雇った人々をくまなく調査し、22人の感染者を突き止めた。腸チフスは通常、チフス菌に汚染された食物や水を通じて感染する。感染すると高熱、下痢などの症状が現れ、抗菌薬が開発される前は死に至る場合もあった。
調査の開始から4カ月後、ソーパーはパーク・アベニューの富豪の家で働くマローンを発見する。ソーパーは後に、マローンはアイルランド生まれの37歳の料理人で、「身長は約168センチ。金髪、真っ青な目、健康的な肌色。口と顎に強い意志を感じる」と詳述している。
証拠を突き付けられ、尿と便のサンプル提供を求められたマローンは、ソーパーに肉料理を切り分ける時に使う大型のフォークを向けて追い返した。
続いて気鋭のS・ジョセフィン・ベイカー博士が派遣され、マローンの説得にあたったが、やはり追い払われてしまう。父親を腸チフスで亡くしたベイカーはその後、自身の使命として予防医学の推進に取り組んだ(そして、女性として初めて公衆衛生の博士号を取得した)。「私たちを信じることができなかったのは、メアリーにとって悲劇でした」とベイカーは振り返っている。
最終的に、マローンはベイカーと5人の警官によって病院に連れて行かれた。マローンは退院を試み、成功しかけたものの、検査の結果、チフス菌が検出される。そしてブロンクスの川に浮かぶ小島ノース・ブラザー島にあるリバーサイド病院の敷地内の小さな家に隔離された。
マローン自身に腸チフスの症状はなく、自分が感染を広げていることを信じなかった。自身に症状が見られなかったこともあり、保菌者の意味を理解していなかった可能性が高い。医師たちはマローンに、唯一の治療方法は胆のうの摘出だと伝えたが、マローンは拒絶した。
1909年、「ニューヨーク・アメリカン」紙で「腸チフスのメアリー」と報じられ、マローンはその後もこの名前で呼ばれるようになった。マローンは弁護士に手紙を書き、「まるでのぞき見されているような気分です。研修医たちもわざわざやって来て、すでに全世界が知っている事実について私に尋ねます。結核の男性たちにも『彼女だ。さらわれた女性だよ』と言われます」と不満を述べている。
「他者への感染を防ぐよう感染者に教えることがいかに難しいか」
無症状だったメアリー・マローン(手前の人物)は、料理人として働いていたとき、腸チフスの感染源となった。ノース・ブラザー島の病院で撮影。(PHOTOGRAPH FROM BETTMANN/GETTY)
同年にマローンはニューヨーク市衛生局を訴え、最高裁判所で争われた。世論という法廷でも、マローンは個人の自主性や、公衆衛生の危機における州の責任を巡る論争を巻き起こした。実際の裁判では、マローンの弁護士が、マローンは適正な手続きなしに拘束されたと主張した。
裁判所は「社会を感染症拡大から守らなければならない」と説明し、マローンの釈放を認めなかった。しかし1910年の初めに衛生局のトップが変わり、マローンは自由の身になる。釈放の条件は料理人の仕事を辞めることだった。
それでも、ほかに得意なことがなく、自分の状態が危険だという意識もなかったため、マローンは料理人の仕事に戻り、ニューヨーク州やニュージャージー州で働いた。勤務先はホテル、ブロードウェイのレストラン、スパ、下宿など。ところが1915年、スローン産科病院で25人が腸チフスに感染し、ソーパーが再び調査を依頼された。そこで働く料理人の「ブラウンさん」がマローンだった。
マローンは再びノース・ブラザー島に送られ、二度と出ることはなかった。彼女は本を読んだり、研究室で医学検査の準備の仕事をしたりして毎日を過ごした。1938年、マローンは脳卒中で死去。四半世紀に及ぶ隔離生活だった。マローンは腸チフスの保菌者であることを決して認めず、おそらく理解に必要な教育を受けていなかったため、実際に信じていなかった。ブロンクスのセント・ルークス教会で葬儀が行われ、9人が参列した。
マローンを感染源とする2度の集団発生で、少なくとも51人が腸チフスに感染し、3人が死亡した。実際の感染者ははるかに多かったはずだ。
1913年の講演では、「『腸チフスのメアリー』が発見されて以降、感染症と保菌者の問題が計り知れないほどの重要性を持つようになりました」と述べた。「効果的な公衆衛生対策が行われているすべての国、感染病がコントロールされているすべての軍で、この重要性は認識されています」
さらに、「『腸チフスのメアリー』の物語は、他者への感染を防ぐよう感染者に教えることがいかに難しいかを示しています」とソーパーは警告している。
飛沫の「スーパーエミッター」、コロナ感染拡大源の可能性
2020年10月、韓国のソウルで新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため、防護服を着て道路に消毒剤を散布する作業員。(PHOTOGRAPH BY CHUNG SUN-JUN, GETTY IMAGES)
「腸チフスのメアリー」以降、感染症が集団発生すると、スーパースプレッダーの存在が取り沙汰されるようになった。そして、先に述べたように、新型コロナウイルスでは、スーパースプレッダーになりうる特徴のひとつとして、声を出したときに人より多くの飛沫を排出するスーパーエミッターにも関心が集まっている。
米カリフォルニア大学デービス校でウイルスの伝播について研究する化学工学者のウィリアム・リステンパート氏の研究チームは2019年、話し声が大きければ大きいほど、排出されるマイクロ飛沫の量が多くなるという論文を学術誌「Scientific Reports」に発表した。だがこのとき、同じ音量で話しても大量の飛沫を排出するスーパーエミッターがいた。
「明らかに、生理学的な理由があるはずです」。ひとつの可能性として、声帯の表面に存在する「気道液」の粘度と、声を出したときのその反応が人によって違うのではと、リステンパート氏は考えている。
ただし、問題をややこしくさせているのは、感染症自体が気道液を変化させるということだ。例えば、細菌性肺炎や重度のインフルエンザに感染すると、水分が失われてたんぱく質が多く作られるため、気道粘膜の粘度が高くなる。ぜんそくや嚢胞性線維症(のうほうせいせんいしょう)などの慢性的な病気も、気道液の粘度を高める要因になる。
また、すぐに水分が蒸発し、空気の温度、湿度、流れなどの周囲の環境に敏感な飛沫の計測は技術的にも難しい。
こうした問題が立ちはだかり、飛沫による感染伝播の研究は数十年間進展を見せていなかった。「2020年の今になっても、インフルエンザがどうやって拡大するかについてはっきりとした結論が出ていません」とリステンパート氏は言う。
多くの専門家は現在、室内の換気をよくし、マスクを着用することで、マイクロ飛沫に乗って拡大する新型コロナウイルスの感染を抑えられるという意見に同意している。空気中を漂う微粒子であるエアロゾル科学の専門家たちも、2020年7月にそろってマイクロ飛沫感染にもっと注目すべきだと訴えた。米疾病対策センター(CDC)とWHOも、今ようやくこれを強調し始めたところだ。
この記事はナショナル ジオグラフィック日本版とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。世界のニュースを独自の視点でお伝えします。
文=NINA STROCHLIC、FEDOR KOSSAKOVSKI/訳=米井香織、ルーバー荒井ハンナ