連載:満蒙開拓の記憶
この記事は信越放送とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。1931年に満洲事変が起きると、翌年、現在の中国東北部に「満洲国」が建国。日本全国から農民を中心とした移民「満蒙開拓団」が送り出され、長野県からは最も多い3万人余りが満州に渡りました。戦後75年、戦争体験者が減っていくなか、ひとりひとりの記憶から満蒙開拓の歴史を問い直します。SBC信越放送
このような体験は、語り継いでいかないと思いますが、時間がたつとたくさんの
記事の中に紛れてしまいます。
そこで、上記アドレスから転記させていただきました。
【満蒙開拓の記憶】「幼い子どもの首を絞める手伝いをしたんだ」75年前の集団自決 たったひとり生き延びたのは15歳の少年だった
3/31(火) 15:48配信
SBC信越放送
https://rdsig.yahoo.co.jp/media/news/cobrand/sbc/RV=1/RE=1586864751/RH=cmRzaWcueWFob28uY28uanA-/RB=/RU=aHR0cHM6Ly9zYmMyMS5jby5qcC9uZXdzLw–/RS=%5EADA4PCnaTHTPE4I8TjepO705X2gDb8-;_ylt=A2RhZMNvLYNejH0AKjbMmeZ7戦後75年、戦争体験者が減っていくなか、ひとりひとりの心の奥底に刻まれた不都合な記憶を見つめ、平和の尊さを語り継ぐ。
長野県の豊丘村に住む久保田諫さんは、戦争中、満州(現:中国東北部)をめざして海を渡った。全国でおよそ27万人。長野県からは最も多い3万人余りで、2位の山形県の2倍以上と突出している。満蒙開拓団と呼ばれたが、その実態は、中国の植民地支配とソ連国境の防衛を目的に入植を進める国策で、敗戦後の逃避行や収容所では8万人余りが命を落とした。久保田さんがいた開拓団は集団自決の道を辿る。残された母親と子どもたち
2008年と2013年に取材した、長野県豊丘村に住む久保田諫さん。14歳のとき、家族と離れ単身で満州に渡った。帰国したのは敗戦から3年後の1948年。テレビカメラの前で集団自決の全貌を語るのは初めてだった。
満州国は1932年にできた日本の傀儡国家で、開拓団の送出は国策として進められていた。久保田さんがいた河野村も、国の政策に従って村人を送り出す。「お国のため」であり、村の財政改善にも結びついていた。しかし、送出を決定した1943年には、戦争の激化で若者は招集され、働き手は軍需工場へ。募集は思うようにいかなかった。開拓団は家族単位が基本だったが、人数を確保したい村は、久保田さんの父親を説得し、14歳の少年を単身で参加させることにした。河野村開拓団は総勢95人。1944年8月、吉林省の長春の郊外で入植式を行った。
インタビューの空気が一変したのは集団自決に話が及んだ時だった。息遣いとカメラの機械音が沈黙の重苦しさを際立たせる。
「開拓団へ来れば召集令状は来ないというわけだったけど、正真正銘の召集令状が来て段々入隊して行った」
戦況の悪化とともに開拓団の成人男子は召集され、1945年8月15日、残っていた男性は4人。あとは団員の妻と子どもたちだった。日本敗戦のニュースが届くと事態は緊迫していく。
「どこからともなく何百人という人が集まってきて、一人の兵士が馬に乗って走ってくると空へ向けて拳銃をぶっぱなして、ときの声が上がって暴動が起きたんだ」
開拓団に残された76人は、中国人に囲まれていた。偽りの豊かさ
開拓団の農地と家は、日本の公設企業が現地の中国人から安く買い叩いて手に入れたものだった。“開拓”とは名ばかりで、もともと住んでいた中国の農民を、開拓団が追い出した形だ。2017年、土地と家を奪われた人に話を聞くことができた。長春の郊外に住む蔡忠和さんは、当時14歳。一家は、河野村開拓団の入植で、半ば強制的に退去させられ、米も野菜も作れないやせた土地に、草の家を建てて暮らすことになった。
「住めなくなったけど、命さえあれば、それでよかった。日本人の言うことが絶対だったから。開拓団が耕し始めた土地はもう日本のものだった。食べ物もろくになかったので、どんぐりの実を粉にして食べていた。家族全員、お腹をこわしたり、痛がったりしたこともあり、食べにくかったが、お腹がいっぱいになれば、それでよかったんだよ」。
開拓団が満州で手にした豊かな暮らしは、中国人に犠牲を強いることで成り立つものだった。国に見棄てられた開拓民
久保田さんたちが敗戦の知らせを受けたとき、満州で日本の軍事を担っていた関東軍は、大本営の命令を受けて既に撤退を始めていた。国に見棄てられた無防備な開拓民に、中国人の報復の矛先が向けられる。
「8月15日の晩は身の回りのものをもって避難したんだけど、16日の夜に暴動が起きたときは、そんなもの持って逃げようと思っても取り返されて、着のみ着のままで叩き出されてしまった」。
広大なトウモロコシ畑のほかに身を隠す場所はない。しかし、すぐに見つかり、服も奪われてしまう。取るものがないとわかると、これまで抑圧されてきた住民たちの怒りは、開拓団の責任者である65歳の団長へ向けられた。
「気の毒なほど、団長は暴力を受けている。年寄りだから余計に抵抗力がなくて、もう虫の息だった。苦しくてやっとしゃべれるくらいで『俺はもう駄目だから早く楽にしてくれ』って言い出した。とにかく俺を楽にしてくれと訴える一方だった」
幹部の妻たちの話し声が聴こえてきた。
「これで逃げていくわけにはいかない、団長さんああ言うんだから、とにかく言う通り楽にしてやりましょうよ」
異を唱える者は誰もいない。
「できるだけの人が手をかけて、団長の首を絞めて息の根を止めて楽にしてやったんだ」。お父さんは戦死したんだから・・・
団長を亡くした開拓団は追い詰められていく。当時は、捕虜になって命乞いするよりは潔く死を選ぶことが尊い生き方と教えられていた。暗闇におびえる若い母親たちに狂気がまといつく。
「『お父さんは戦死したんだから、日本は駄目なんだから、お父さんのところへ行きましょう』と言って、幼い子どもに手を合わせさせると、母親が後ろから帯紐やもんぺの紐で首絞めて。反対する人はいなかったな。『それでも何とか逃げていきましょう』という声は耳にしていない。お互いに我先にと自分の子どもを殺し始めたんだ」。
日本にいる家族と離れ、ひとりで開拓団に参加した久保田さん。何が起きているのか理解できず呆然としていた。
「しばらく考え込んでいたら叱られたんだ。『何しているんだ、早く手伝ってくれなくちゃ、また中国人が来たり夜が明けてしまう』って叱りを受けて。仕方なしにお手伝いを始めたんだ、子どもの首を絞める」
どれくらいの時間が経ったのか、何人ぐらい手にかけたのか、感覚はない。最後まで残った青年と、石で額を叩きあい自決を図り、意識を失う。翌朝、瀕死のところを中国人に助けられ、生き延びた。その後、難民収容所で冬を越し、鉄道工事などの仕事を転々とした。引揚げ船の情報を得て、村に帰り着いたのは、敗戦から3年が経った1948年の夏。それは苦しみの始まりでもあった。逃れられない苦しみを背負って
開拓団に残された76人のうち、団長は暴行を受けた後に死亡、73人が集団自決。最後に久保田さんと自決を図った青年も中国人に助けられたが、現地で病に倒れて亡くなった。
召集されて開拓団を離れていた男性たちは、引揚げて帰村。自決した妻子のことを心の奥に沈め、新しい家族を築き再出発した。敗戦の翌年には、開拓団を送り出した河野村の村長も自責の念に苛まれ自ら命を絶った。自殺した村長の責任を問う声はなく、残された妻や子どもを気の毒だと気遣う。
久保田さんを責め立てる人もいなかった。戦後、村のなかで、この事実を口にすることは憚られた。送り出した側も送られた側も深い悲しみと痛みを抱え、同じ村で生きていくために心に鍵をかけなければならなかった。
久保田さんは、毎年8月16日、自決した人たちの名前が刻まれた村の慰霊碑に線香を供えて手を合わせる。
「大勢の命を奪ったという自分の後ろめたさというか、どこかで『お前は大勢の人殺しじゃないか』って指をさされるような気持ちになるときもある」
戦争という極限の状態、そこが戦場であれば、人の命を奪うことは許されるのか。繰り返し自分に問いかけてみるが、どんな答えを出しても、この苦しみから逃れられないことはわかっている。
長野県の阿智村にある満蒙開拓平和記念館では、開館した2013年から、毎月、語り部講演を開催している。久保田さんは、2020年現在も語り部の一人として体験を語る。記憶を呼び起こす作業は苦しく、講演した夜はうなされることもあるという。時に顔を歪ませながら、それでも語り続ける姿は、体験者としての使命感からだけではない。自らに責苦を課しながら、無かったことにできないあの夜と向き合い続けているようにもみえた。連載:満蒙開拓の記憶
この記事は信越放送とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。1931年に満洲事変が起きると、翌年、現在の中国東北部に「満洲国」が建国。日本全国から農民を中心とした移民「満蒙開拓団」が送り出され、長野県からは最も多い3万人余りが満州に渡りました。戦後75年、戦争体験者が減っていくなか、ひとりひとりの記憶から満蒙開拓の歴史を問い直します。