サイパンでは第1次世界大戦後の22年以降、多くの日本人が甘蔗(かんしょ)栽培、製糖工場、漁業などに従事していた。嘉則さんはカツオ船に乗り若い本部出身の漁師として活躍していたが、次第に太平洋戦争の戦火が激しくなった。
44年、日本軍と米軍の戦闘の中、光夫さんは母親の後ろで身をかがめて逃げていたところ母親が銃撃を受け即死した。「おっかあ! 起きてよ、早く逃げよう!」と叫び母の背中にしがみついているところを米兵2人に助けられた。赤い血で体が染まっていることに気付くと、自分の左手にの指が親指を残して4本吹き飛んでいた。米兵の手厚い手当てで奇跡的に一命を取り留めたという。
収容所で日本人を含む現地の子どもたちと生活を共にしていたところ、本部の親戚が訪ねて来た。光夫さんが生きていることが確認できたため、保護されて45年に沖縄に帰り、祖父母に育てられた。
光夫さんは14歳で健堅の海人の見習いとして追い込み漁に従事し、27歳の時に町大浜出身の和子さん=当時24歳=と結婚。2男1女の父親となった。漁船(サバニ)を購入し28歳で海人として独立し、3人の子を育て、70歳まで働いた。光夫さんは自身の戦争体験を振り返り「恐ろしい戦争は絶対に起こしてはならない」と涙を浮かべる。
長男の光裕さん(52)、長女のかおりさん(49)、二男の真さん(43)の3人は「悲惨な戦争を生き延びたおかげで子ども、孫、ひ孫たちの命をつなぐことができた。命どぅ宝、平和の大切さを語り継ごう」と話している。
極限状態の中でも、まともな兵士もいて、その人達に発見されたことで助かっ
た命。
運が良いとは失礼なのかも知れないが、ご本人が仰るように、命を繋いだことで、お母様の魂が繋がっているように思います。
強く生きてこられた方。尊敬します。
こういう生き証人の話を聞くたびに戦争は二度と起こしてはいかんと思う
軍備を放棄することが戦争を回避する方法だなどと世迷言を言うつもりはない
自国をしっかり守れる装備を持つことこそ抑止力になると信じる
支配、搾取、そんなことばかり世界は考えているから戦争はなくならない。
このような話を聞くたびに、小金で生活している善良な市民のみが死ぬ構図だと痛感する。
バカ臭くて地球で生きてる事すら嫌になった時がある。
支配欲が強い人たちは、勝手に争い合う国を作り、そして平和に暮らしたい人だけが暮らせる国があったら、どんなに幸せか。
勝手な妄想だが、後世にこんな世界が出来ればいいと願っている