手足の切断泣きながら手伝い…沖縄戦で見た惨状  91歳が願う平和

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昨春、平和学習を通じて交流があった20〜50代の男女9人に活動を託した。メンバーは絵本作家や教員、大学生とさまざま。看護要員として動員された中山さんら旧制県立第二高等女学校生が白梅学徒隊と呼ばれたことから、若梅会とした。

9人は中山さんの体験や平和への願いに何度も耳を傾けた。

中山さんは野戦病院で負傷兵の手足の切断を泣きながら手伝うなど、激戦地に駆り出された。戦況が悪化した1945年6月4日、学徒隊に解散命令が出る。

軍から渡された自決用の手りゅう弾を抱え、砲弾が飛び交う沖縄本島南部を逃げ回った。追い込まれて自決しようとし、幼なじみに止められた。学徒隊56人のうち22人が命を落とした。

「生き延びたことが申し訳ない」。自らを責め、戦争体験を語ることはなかった。夫の転勤で住んだ広島、長崎で被爆者に触れ「語らなければ、戦争の悲惨さも友の死もなかったことにされる」と知る。95年に体験をまとめた本を出版、語り部も始めた。

県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。戦後75年を経ても辛苦は続く。先祖代々の土地を奪った米軍基地は新たな戦争の出撃拠点になった。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先、名護市辺野古沖の埋め立ても強行されようとしている。

若梅会の9人は、それぞれの思いを胸に抱えながら活動に参加した。

2004年、普天間飛行場に隣接した沖縄国際大に米軍ヘリが墜落炎上した事故。大学進学で京都市から移り住んでいた北上田源さん(38)=沖縄市=は事故当夜、現場に行こうとして警察に阻まれた。遠巻きにして見た現場を闊歩(かっぽ)していたのは、警察の立ち入りすら拒んだ米兵だった。

「本土とは違う基地の町を初めて実感し、沖縄の人が背負う恐怖が自分のものになった」。今は大学の非常勤講師として、学生と基地問題を考える。

「重いバトンを受け取った」

会社員伊波春奈さん(24)=嘉手納町=の祖母は、沖縄戦で両親と5人のきょうだい全員を失い、生家は米軍嘉手納基地にのみ込まれた。「沖縄戦と基地問題は地続き。この島に生まれた者として一生向き合わないといけない」

「重いバトンを受け取った」。若梅会代表で雑誌編集長の川元千寿さん(51)=那覇市=はこう話す。

今年は新型コロナウイルスの影響で、多くの慰霊祭が中止や規模縮小に追い込まれ、体験者が語る機会もほとんどなかった。「体験者なき時代が目前に迫る中、新型コロナは継承の風化を現実のものとして突き付けた気がした」

23日にある白梅学徒隊の慰霊祭には中山さんとともに参列する。「沖縄の戦世(いくさゆ)は終わってない」。中山さんの言葉を継承し、若梅会が「平和の道しるべ」の一助になる決意で−。

(那覇駐在・高田佳典)

沖縄の皆様の経験は必ず後世に伝えなければならないと思います。戦争の醜さ真実を残してください。私もそれをさらに後世の方々に伝えます。

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