農業を取り巻く環境が厳しい中、「日本の原風景を守りたい」と国内最大級の会計事務所を退職した若者が、栃木県那須町で未経験の稲作に挑戦している。井上敬二朗さん(41)、真梨子さん(38)夫妻。就農わずか2年で直販による月間売り上げが100万円を超えるなど、2人の農園改革はネット交流サービス(SNS)を中心に話題になっている。敬二朗さんが描く将来の農業ビジョンを聞いた。【湯浅聖一】
【田んぼに浮かび上がった「桃太郎」】
――脱サラして就農するまでの経緯を教えてください。
◆東京の大学を卒業して大手証券会社に入社しましたが、自分の仕事が「誰の何のために役立っているのだろう」と疑問を持ち、3年で辞めました。その後は大学院で経営学を学び、2005年に有限責任監査法人トーマツに入りました。当時は企業の粉飾決算が相次いでいました。会計事務所なら資本主義の暴走に歯止めを掛けられると思ったのです。
担当は企業のコンサルティングでしたが、もっと形の見える仕事をしたいという思いは拭えず、社内結婚していた妻と一緒に退職し、岡山県備前市に移住しました。そこでは環境エネルギーでまちづくりをする知人の会社に勤めたり、カフェを開いたりしましたが、3年前に米農家を営む妻の父親が脳卒中で倒れて半身まひになったため、急きょ那須町に帰って農園を引き受けることになりました。
――実際に農業をやってみてどうでしたか。
◆義父は高齢化などで耕作できない農家の田んぼも請け負っていたので、作業は山ほどあってきつく、いくら計算しても全くもうからないという厳しい現実が3日で分かりました。1年目はとにかく耐えしのぐしかなく、もう地獄でした。
「このままでは発展性がない」と夫婦で話し合い、農協以外の販売先を開拓しようと、18年に菓子製造販売会社「TINTS」を起業しました。今で言う6次産業化です。無農薬・減農薬栽培の米を使って開発したポン菓子「イナポン」がネットで人気となり、それが米にも広がって地元の有名ホテルやレストランにも卸せるようになりました。
――新たな商品開発を目的にしたクラウドファンディング(CF)は開始わずか13時間で目標額の100万円を達成しました。
◆びっくりしました。今は目標額を300万円に設定して挑戦中です。1年目の閉塞(へいそく)感と無力感を思うと、たくさんの人に支援してもらっているのが心強くてありがたく、私たちの自信になっています。
――将来のビジョンは。
◆就農して気づいたのですが、田んぼにはさまざまな生態系や美しい景観、治水能力などがあります。しかし、一般の消費者には知られていません。米離れが続くとどうなるか。みんなで考えないと日本の農業はだめになります。私たちは田んぼを開かれた場所にし、消費者に生でその価値や魅力を知ってほしいと思っています。みんなが関わり合えば、環境や生態系を守り、美しい原風景を未来へつなげられるのではないでしょうか。
◇聞いて一言
親が農家とはいえ、未経験の農業に飛び込み、保守的な土地柄で農業経営を改革していくのは並大抵なことではなく、苦労も多いと思う。それを夫妻で乗り越えようとする姿がとても印象的だった。真梨子さんは取材で「田んぼの真ん中にカフェをつくりたい」と夢を語っていた。自分たちが栽培した安全安心な食材を提供するのだという。実現したら、ぜひ呼んでください。
◇井上敬二朗(いのうえ・けいじろう)さん
1979年、東京都国分寺市生まれ。大学卒業後、大手証券会社などを経て、2005年に有限責任監査法人トーマツに入社。18年に義父の後を継ぎ、那須町でコシヒカリなどを栽培する米農家を営む。CFは支援サイト「キャンプファイヤー」で検索。募集期間は11日まで。写真右は妻真梨子さん。