田中角栄前首相、私は好きです。
そして、この事件以来、マスコミに対して、疑いの目でみる必要性を感じていま
す。
ただ、真実は、わからない・・・。
結局は、歴史が証明してくれるしかないのかな、と思いますが、アメリカのすご
いのは、秘密文書、機密文書をきちんと残し、一定期間が過ぎると公開してくれ
ること。
その点では、日本もその制度が必要なんだと思います・・・・。
1976年7月27日、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社から違法な政治献金を受け取ったとして、田中角栄前首相が逮捕された。「戦後最大の汚職事件」とも言われるロッキード事件である。しかし逮捕の決め手となった証拠は、角栄の外交政策に批判的だったあるアメリカ高官が、意図的に日本側へ流したものだった。田中角栄は誰にハメられたのか? 新刊『ロッキード疑獄』から紹介する。
———-【写真】「角栄を総理にした女」の生涯を、娘が明かした
ロッキード事件は「復讐劇」か
田中角栄元首相[Photo by gettyimages]どんな陰謀も「動機」なしに企むことはない。動機があるから企みを実行する。動機はしばしば、「怒り」から生じる。怒りは突発的なものであり、時とともに鎮まって、忘れてしまえば、雲散霧消することもあり得る。
だが、怒りは度重なると「憎しみ」となり、さらに「復讐」の動機を生む。復讐のための陰謀を企むと、「純粋性」を失い、さまざまな計略を考える。哲学者の三木清は、そんな人間の業を教えてくれる(注1)。
ロッキード事件をめぐって、数々の陰謀論が流布している。しかし、これまでに浮上したどの陰謀説も、動機を立証できていない。
『ロッキード疑獄』は第一部で、田中角栄を葬った実行行為を特定し、法執行機関による捜査、刑事的決着までを描いた。
だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。ここでその理由を解明しなければならない。
長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。
キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。
アメリカ国務長官の恐ろしい謀略
ロッキード事件は、国際政治スキャンダルでもあった。英語ではこの事件は「スキャンダル」とも呼ばれている。ここでは、「事件」と「スキャンダル」を分けて考えてみたい。「事件」の方の動機、例えば贈賄の動機は立証済みであり、ここでは追及しない。ここで探るのは、政治家としての田中を葬った、国際的な「スキャンダル」の動機である。田中が“被害者”となったスキャンダルに、殺人事件の捜査手法を当てはめてみたい。
殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。
(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。
(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。
その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。
しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。
既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。
残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。
1976年7月27日、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社から違法な政治献金を受け取ったとして、田中角栄前首相が逮捕された。「戦後最大の汚職事件」とも言われるロッキード事件である。しかし逮捕の決め手となった証拠は、角栄の外交政策に批判的だったあるアメリカ高官が、意図的に日本側へ流したものだった。田中角栄は誰にハメられたのか? 新刊『ロッキード疑獄』から紹介する。
———-【写真】「角栄を総理にした女」の生涯を、娘が明かした
ロッキード事件は「復讐劇」か
田中角栄元首相[Photo by gettyimages]どんな陰謀も「動機」なしに企むことはない。動機があるから企みを実行する。動機はしばしば、「怒り」から生じる。怒りは突発的なものであり、時とともに鎮まって、忘れてしまえば、雲散霧消することもあり得る。
だが、怒りは度重なると「憎しみ」となり、さらに「復讐」の動機を生む。復讐のための陰謀を企むと、「純粋性」を失い、さまざまな計略を考える。哲学者の三木清は、そんな人間の業を教えてくれる(注1)。
ロッキード事件をめぐって、数々の陰謀論が流布している。しかし、これまでに浮上したどの陰謀説も、動機を立証できていない。
『ロッキード疑獄』は第一部で、田中角栄を葬った実行行為を特定し、法執行機関による捜査、刑事的決着までを描いた。
だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。ここでその理由を解明しなければならない。
長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。
キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。
アメリカ国務長官の恐ろしい謀略
ロッキード事件は、国際政治スキャンダルでもあった。英語ではこの事件は「スキャンダル」とも呼ばれている。ここでは、「事件」と「スキャンダル」を分けて考えてみたい。「事件」の方の動機、例えば贈賄の動機は立証済みであり、ここでは追及しない。ここで探るのは、政治家としての田中を葬った、国際的な「スキャンダル」の動機である。田中が“被害者”となったスキャンダルに、殺人事件の捜査手法を当てはめてみたい。
殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。
(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。
(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。
その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。
しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。
既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。
残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。
キッシンジャーの激しい「怒り」
田中角栄と周恩来[Photo by gettyimages]キッシンジャー大統領補佐官は、その中で、田中角栄とみられる日本人らを烈火の如く「ジャップは上前をはねやがった」と罵っている。
キッシンジャーはなぜ、そんなに怒っていたのか。「上前をはねた」とは、一体どういう意味なのか。疑問が募った。
この文書こそ、まさにキッシンジャーの激しい「怒り」を示した文書だったのだ。しかも、田中による日中国交正常化を厳しく非難した言葉だった。
この文書からスタートして、米国立公文書館やニクソン大統領図書館、フォード大統領図書館などで、田中首相在任中の米国の文書を渉猟した。長年の取材で分かったのは、キッシンジャーとニクソン大統領が、政治家田中の外交政策を嫌悪していたことだった。
「日中国交正常化」だけではなかった。第四次中東戦争に伴う石油ショックで、田中は日本外交の軸を「アラブ寄り」に転換し、さらに独自の日ソ外交を進めた。日ソ外交で、田中は今も知られていない復讐をされていた。
興味深いのは、田中自身を含めて、日本政府側は当時も今も、こうした米側の思考と外交をほとんど認識していないことだ。
ただ、日本の「アラブ寄り外交」への転換について、田中とキッシンジャーは激論を闘わせており、田中も米側の意向を十分理解したに違いない。
三木清ではないが、キッシンジャーの怒りは度重なり、「復讐心」を持つほどのレベルに達していったのである。
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注釈
(注1)三木清『人生論ノート』、新潮文庫、1954年、51〜57頁
(注2)奥山『秘密解除』、278〜279頁
(注3)National Security Archive Publishes Digitized Set of 2,100 Henry Kissinger “Memcons” Recounting the Secret Diplomacy of the Nixon-Ford Era, 2019年7月8日アクセス
———-春名 幹男(国際ジャーナリスト)