「臭くないか」「部屋の明るさは大丈夫か」全日本女子バレー監督は“日本だけがノンプロ”という〈意識の低さ〉をいかに変えたか
日の丸女子バレーの話しを文春オンラインで見ていたら「知覧特攻平和会館」のことが出ていました。
眞鍋にはもう一つ大きな仕事があった。選手に日の丸を背負う覚悟、オリンピックを闘う気概を、骨の髄まで染み込ませなければならないと考えた。
「もちろん国際大会などで、僕らが負けるということは日本という国が負けるということなんだ、と口酸っぱく言いましたけど、五輪に出場したことのない選手が半分いる。その意識の差をどうやって埋めるか。観念的なことなので、伝えるのが難しかった」
奄美大島で合宿したときだった。関係者からホテルの庭で激励会をやってもらっていると、出席した地元の老人が空を見上げながら眞鍋につぶやいた。
「昔、この地点が特攻隊の生死を分ける分岐点になったんですよ。片道のオイルを積んで知覧から少年兵が飛ぶんです。でも、機体の調子が悪いと、ここから引き返すことになっていた。空を見上げながら、引き返せ、引き返せと祈っていたもんです」
眞鍋は老人の悲しそうな顔を見ているうちに閃いたことがあった。来週から鹿児島合宿が始まるが、合宿場所の指宿(いぶすき)と知覧はそう遠くない。
「日本だけがノンプロなんです」
眞鍋は、鹿児島合宿の初日を急遽休みにして、選手らを知覧特攻平和会館に連れて行くことにした。
「でも、悩みましたよ。女性だし、特攻隊の惨劇を目の当りにしたらかえってショックを受けるんじゃないか、って。ただ、不幸な出来事ではあるものの、日の丸を背負う覚悟は僕らも同じ。もし、何も感じてもらえなくても社会勉強にはなるって考えたんです」
眞鍋は海外遠征に行くと、その土地にふれるようにと度々休みを与えた。しかし選手らは疲れているせいもあり、2~3時間もするとホテルに戻ってくることが常だった。知覧特攻平和会館もすぐに飽きるかも知れないと懸念したが、博物館に足を踏み入れた途端、選手たちは固まった。
写真や遺品に涙し、少年兵の遺書を読んで嗚咽を漏らしている。語り部の話にハンカチで顔を覆う。当時の状況が分かる視聴覚室では、声を上げて泣いた。何時間経っても誰1人、外に出ようとしなかった。家族に思いを募らせながらも、国を守るため、空に散ったいたいけな少年たちの史実に、選手らは改めて気がついた。自分たちが好きなバレーが出来る環境は、こんなにも悲しい犠牲の下に成り立っているんだと。
眞鍋がしみじみ言う。
「あれから選手たちの目つきが変わりましたからね。日の丸の重みの意味を肌で感じてくれたんだと思います」
眞鍋が選手に自立をうながし、国を背負う覚悟を意識付けたのは、こんな理由があった。
「海外のバレーはすべてプロ。韓国だってそう。日本だけがノンプロなんです。人生や生活をかけているプロと、企業に守られているアマチュアが試合をして、アマチュアが勝てるはずが無い。でも僕らは日本代表である以上、プロに勝たなくちゃならないんです。僕らが勝つには、日の丸の誇りや日本を背負う気概をいかに強く持っているかにかかっている。その鍵になるのが選手の主体性なんです」
YouTubeでも知ることができますが、やはり、現地に行ってみたい
知覧特攻平和会館 ←YouTube
知覧特攻平和会館 〒897-0302鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
知覧・神風特攻基地【記録映像】”なでしこ隊” 太平洋戦争
バレー部の厳しい練習と自殺未遂と特攻隊だった教師のことを思い出す
私もバレー部でしたが、バレーボールの練習って、みなさんが想像しているより、恐ろしいほど練習がキツイです。
当時、練習から逃げ出したくて、自殺未遂まで追い込まれた自分の精神状態を思い出すと、ぞっとします。
生きててよかった、と思います。
当時、本当は特攻隊として死ぬはずだった鬼のような高校の先生が、ご自身の体験を真剣に話してくれたおかげで、私は、以来、死ぬ、ということは決して考えなくなり、生きることに感謝できるようになりました。
その先生の訃報が届き、今回のウクライナでのことを思うと、どうすれば戦わないで誰もが平和で暮らすことができるのか、と切実に考えさせられます。
大学生の娘が神風という言葉の意味を知らないことに、これは、まずい、と思っていたところです。
赤紙を受け取った当時の体験を父から伝えてもらいましたが、こういう体験は、ちゃんと伝えていかないといけない、と思っていたので、今回の記事で、「知覧特攻平和会館」のことを知ったので、コロナが終わったら、家族で、行ってこようと思ったしだいです。
はやく、ウクライナの悲劇が終わりますように・・・・。